研究題目について、南北朝・室町時代の門跡寺院に残された文書や、公家の日記を中心に史料の蒐集を行った。その過程において、門跡の成立と人事問題に焦点をしぼることとし、室町時代に至るまでの青蓮院について検討した。その結果次の見通しを得た。1.青蓮院門跡とは青蓮院を中心とする複数の院家・寺院・坊の集合体である。2.複合体としての青蓮院門跡が成立するのは、慈円が門跡であった鎌倉初期、13世紀に入ってからである。3.門跡の語は、本来、その一門・一流の「跡」、後継者、門流を意味しており、複合体を意味する語ではなかった。それが、諸院家全体を一つの門跡・門流のなかの一人が継承するものとなっていくと、その複合体全体を指す名称が必要となってくる。そこで採用されたのが門跡の語である。4.門跡の名称は、ある段階でその複合体を一つの組織と認識した人物やその周辺が、そのような組織体の始まりを誰と考えていたかによって決定される。複合体としての門跡が維持・継承されるためには、門跡統合の原理・理念が必要である。 次に南北朝時代の興福寺の強訴とそれに対応する幕府・王朝の対応を検討し、その前段階として、鎌倉幕府の寺院政策を検討した。 中央における権門寺院の動向とは別に、南北朝時代の地方寺院の存在形態を、尾張国真福寺を事例として検討した。その結果、以下の結論を得た。1.真福寺所蔵の東大寺文書は鎌倉末期の東大寺東南院や尊勝院聖教の紙背文書であること。2.これらの聖教が真福寺に現存する理由は、南北朝期の真福寺第二世住持信瑜が東大寺聖珍法親王から付法伝授されたことによると思われること。3.真福寺は談義所としての性格をもっていること。4.真福寺の寺院運営においては「惣寺」の合議制によって成されていたこと。以上である。
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