1)東大寺境内で新たに発見した丸山西遺跡において軒瓦類を採集し、検討を行なった。その結果、丸山西遺跡の創建瓦は6301A-6771B型式と考えられ、興福寺式軒瓦のうち「興福寺系」軒丸瓦と「宮・京系」軒平瓦が混用されているという、特異な状況が明らかになった。また瓦の製作技法などから、同遺跡をのこした寺院の創建が720年代後半頃であったことを推定できるようになった。 2)東大寺丸山西遺跡の測量と地下探査を実施した。測量によって大縮尺の遺跡地図が完成し、将来に向けての基礎データとすることができた。レーダ探査・電気探査では、明瞭に地下遺構をとらえることに成功し、しかも両者は相似た結果を示した。約90m×約50mの大平坦地に大規模な寺院遺構が埋もれていることはほぼ確実である。 3)中〜近世の東大寺文書を広く検索し、天地院・大伴寺・東大寺膝下所領などに関する史料を集成し、データベースを構築した。また、東大寺丸山西遺跡周辺を描いた絵図類の読解を試みた。その結果、奈良時代〜江戸時代の丸山地区の利用状況が明瞭となり、奈良時代に井戸を伴う山林堂宇、平安時代に紫摩金院、鎌倉時代に某院家が立てられたが、江戸時代までに廃絶して、田や山林になったことが判明した。 4)以上の知見に基づき、丸山西遺跡を金鐘寺跡、上院地区を福寿寺跡に比定し、両寺が統合されて金光明寺が生まれ、それが東大寺に発展していったと論断した。東大寺の前身は山林寺院であったが、造営組織は興福寺と密接な関係をもっていたと推定される。
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