本研究では、鎌倉幕府の宗教政策を展望するため、鎌倉で活動した個々の僧侶の経歴を徹底的に調査した。そのため、鎌倉時代の日記史料や山門・寺門・東密に関する基本史料をもとに、僧侶の事績をデータベース化した。これによって鎌倉幕府と主従関係を結んでいた幕府僧の経歴や、彼らの京都進出、および北条出身僧の動向が明らかとなった。 まず北条氏出身で僧侶になった人物は、東密14名、寺門24名、山門8名、禅律僧5名など総勢58名を検出することができた。従来、鎌倉幕府の禅宗保護や、幕府の山門敵対政策が過剰に口にされてきたが、これによってそれらが妥当でないことを確認することができた。 また、幕府僧が畿内権門寺院に進出した事例を検索したところ、(1)源氏将軍時代は皆無であるが、(2)将軍頼経時代になると、東国仏教界の充実を背景に、東寺長者・東大寺別当など幕府僧が東密系の畿内権門寺院に大幅に進出していることが判明した。ところが、(3)執権時頼・時宗の時代になると一転して東密系への進出は皆無となる。この変化の原因は、将軍と北条得宗との権力闘争において将軍権力が敗北したことにあった。そして執権時頼は敵対する将軍護持僧らを追放するとともに、宗教政策を転換して顕密仏教よりも禅律僧の保護へと向かった。 ところが(4)執権貞時・高時時代になると、幕府僧は天台座主、東寺長者・園城寺長吏など山門・東密・寺門のすべてに進出している。この変化の原因は、モンゴル襲来にあるだろう。幕府は畿内権門寺院に幕府僧を積極的に送り込んで、モンゴルに対抗する祈祷体制を構築したのである。 私たちはこれまで、(3)時頼時代の政策転換、および(4)貞時時代の再度の政策転換を見落としてきた。今回の研究によって、鎌倉幕府の宗教政策の段階差が鮮明に浮かび上がったのである。これは幕府の宗教政策を考える上においても、また幕府論一般にとっても、大きな成果となるだろう。
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