今年度は、土地関係史料蒐集の過程で、きわめて興味深い史料(検地帳)を見出すことができたので、その個別分析を行なった。 東播磨の一村落、具体的には加東郡黍田村(加東郡最南端に位置する)に伝来した寛永十年(1633)の検地帳がそれである。ところが、この検地帳の性格は単純ではない。 同一年次に係る検地帳が、少なくとも、三冊伝来しているのである。便宜A帳B帳C帳と区別すれぱ、C帳はB帳を素に作成していることは明らかである。しかし、A帳とBC帳との間には、直接の関連性はみられない。まず、総筆数がかなり異なるし、一筆一筆にみられるほのぎ名(小地名)の順番も大幅に異なる。そして、決定的なのは名請人の総数も内実も大きく異なる点である。 ところで、A帳は、末尾に幕府代官小川藤左衛門が印を据え、斗代(石盛とも、一反当たりの米高もしくは米換算高)を改めたことを銘記するが、A帳内の一筆一筆には石高の記載を欠くことともあいまって、慶長六年(1601)頃行なわれた池田氏による播磨の一国検地の際の検地帳がその原拠史料であることが判明する。 池田の慶長検地はかなり厳しかったことで有名であり、その後、池田氏自身あるいは池田氏以降の領主、特に幕府直轄領時代の代官が、個別の村高およびその総体としての領地高を緩めたことがいわれているが(『兵庫県史』第四巻など)、この点を直接に示すのが、この黍田村A帳と考えられる。とすれば、C帳は寛永十年に村高が改められたことに対応した村独自の検地と評価することが出来、検地帳の史料的性格解明を果たすうえで、まことに貴重な例であると考えられる。 上記の点も踏まえつつ、村落社会の実相に接近したいと考える。
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