寛永二十一年(1644)の備中山間村落を取り上げ、そこにみえる戸口史料から、中世的社会関係の濃厚な土地柄であるにもかかわらず、小家族・直系家族が構成的比重を占めていることを究明した。 江戸時代初期村落社会に枢要な地位を占める土豪百姓の「流通」支配の実態を明らかとした。すなわち、東播磨を事例として、小百姓・商人と対抗しつつ、村段階を超えて、郷段階ないし郡を超えて後背地村落からも、物資の集散を行なっていた土豪百姓の存在が明らかとなった。 また、播磨における池田氏による慶長検地はかなり厳しかったことで有名であるが、その後、池田氏自身あるいは池田氏以降の幕藩領主が、個別の村高およびその総体としての領地高を緩めたことがいわれているが、この点は、西播磨の事例に則してのことであった。しかし、東播磨の事例に則して、この点を実証した。その中で、加東郡南部に位置する黍田村では、「領主」の検地帳と寛永十年に村高が改められたことに対応した村独自の検地帳(「村」の検地帳)の存在が明らかとなり、検地帳研究の上でまことに貴重な事例を発掘することができた。 さらに、検地帳の分析方法を再検討した。その結果、東播磨八力村の事例は通説とは対照的であった。すなわち、生産力水準の低い村々でこそ、小百姓・平百姓の構成的比重が高く、かつ小高持の無屋敷登録人が多くみられたのである。つまり、小高持の無屋敷登録人(特に比率)にまず着目するのではなく、屋敷持の員数の持つ意味を重視して、検地帳の分析を行なうべきであると結論付けたのである。 『研究成果報告書』では、最後の点を中心に述べたが、今後も各地域にわたって、検地帳の分析を行ない、戸口史料との関係も突き詰め、それらを通して近世百姓家族の実態を復元していきたいと考える。
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