本研究では幕末から明治初期にかけての陵墓をとりまく諸問題をテーマとして取り上げ、実証的に解決することを期した。この時期には陵墓をめぐる問題は、朝廷と幕府の間で、あるいは幕府と藩の間で、極めて政治的な文脈で捉えられていたと思われるが、先行諸研究の成果によっても、その実態はなお明らかになっていない。これを解決するために本研究は本年度、(1)「文久の修陵」における神武天皇陵の決定過程の検討、(2)「文久の修陵」の発端となった文久2年閏8月の宇都宮藩による「修陵の建白」直前の政治的状況の検討に焦点を当てることにした。それは、(1)は「文久の修陵」の最重要課題である神武天皇陵の決定・修補の過程が今までの研究では明らかにされてこなかったこと、(2)は「修陵の建白」直前の政治的動向の解明が「文久の修陵」の性格の理解に不可欠であること、のためである。そして(1)は、神武田説の谷森善臣と丸山説の北浦定政の対立とその間における戸田忠至の奔走、孝明天皇の「御沙汰」をめぐる様相を明らかにし、(2)は、文久2年7月の勅使大原重徳と一橋慶喜、松原慶永の会見の折に「山陵御修覆御代拝の億」についても触れられていたことを明らかにした。
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