今年度は、まず、考察年代を文化・文政期に設定し、蘭船持渡品の内、染織品が中心である本方荷物に焦点を絞り、蘭側史料(送り状)と日本側史料(積荷目録)とを突き合わせ、彼我の用語を確定し、あわせて各品目の数量を一覧表で提示・検討した。(拙稿「文化・文政期における蘭船積荷物の基礎的研究」)その後、文政5年(1822)を事例に、蘭船が持ち渡った反物の裂を貼り込んだ「切本帳」とその取引史料との照合を通して、実際にどのような染織がどこで生産され、日本(長崎)に輸入され、どれぐらいの価格で取引されていたのか、嘉永2年(1849)の蘭船輸入反物の事例と比較検討をおこなった。その結果、嘉永2年輸入の染織品が、毛織物と綿織物であり、原産地が全てヨーロッパであったのに対して、文政5年には、毛織物、綿織物、絹織物の輸入があり、原産地はヨーロッパと、インドのベンガルやコロマンデル周辺であることが確認できた。この染織品の種類と原産地の相違は当然時期的問題にある。17世紀から18世紀にかけて、蘭船はオランダ本国の品物だけでなく、その通商圏内にあるペルシア・インド・東南アジア諸地域の品々を日本に輸入することができた。しかし、18世紀中葉から19世紀中葉にかけてのイギリス東インド会社のインド支配によって、オランダはその市場をイギリスに奪われ、物資を獲得することが困難な状況にあった。このような状況下で、オランダは輸出品となる綿織物を自国生産、もしくはヨーロッパ通商圏内での購入に切り替えていったと考えられる。文政5年(1822)はまさにこの切り替え途上の時期にあたる。その一例としてヨーロッパ産更紗とインド産更紗が同時に輸入されているのである。それに対して、嘉永2年には、毛織物だけでなく綿織物までヨーロッパ産のものが日本に持ち渡られ、ベンガルを中心生産地とする絹織物の輸入はその姿を消していたのである。
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