本研究は第2・4代駐日公使であった黎庶昌と日本の文人たちの交流を分析することにより、当時の日中の文化交流の一端を究明することを目的としている。研究期間内に後掲の論文に活字化できたが、今後に残された課題は多い。 活字化したものを概括すれば、藤野海南ならびに娘真子と黎庶昌およびその夫人とのあいだには深い交流があり、それは黎庶昌撰並びに書丹の海南の墓誌銘、真子撰並びに書丹の黎庶昌夫人の墓誌銘に象徴されている。また真子と黎庶昌の随員であった陳矩との交流も注目すべきものである。黎庶昌の蔵書目録を翻印したが、この目録によって当時の文人の蔵書の一端が明らかになり、日本人の著作がかなり中国にもたらされていたことも明らかになった。海南の墓誌の存在から明治時代の日本の墓誌を金石学の課題として分析し、一方、傳雲龍の『日本金石志』についても日中の金石学の交流という面からも分析し得た。本研究課題の副産物として、時代は下るが羅振玉にかかわる日中の文化交流の一面も紹介できた。 残された課題は多いが、いくつかをあげると、黎庶昌と親しく対中国政策に深くかかわった宮島誠一郎の関係資料、当時の日本の漢学者の詩文集に見える文化交流も調査分析中であり、また文人の交流の場のひとつであった芝の紅葉館についても調査中である。これら調査分析を通じて文化交流の諸相を示すとともに、最終的にはこれらを政治史上の問題として追求することにしたい。
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