研究分担者、廬永春は1759年、宮廷画家、徐揚の描いた「姑蘇繁華図」(1241cm×36.5cm)を用いて、清代の中国江南地方の水辺都市空間について考察を行った。絵図中に描かれた街路・広場・建物の3点を考察の対象として採り上げ、それらと水路(運河)との関係の分析を行った。水路に接する街路は、それに面する店舗の経済活動の場として半ば専有化され、さらに護岸に接して一列の奥行の狭い店舗を加えるような集約的土地利用が行われていた。また水路に面する広場は、城門前、橋詰や橋上、宗教施設前に形成されていた。街路・広場・建物が水路と深く結び合わされ、水上交通を基盤とする経済活動や都市生活の場となっていたことなどを解明した(以上、日本建築学会計画系論文集)。 研究代表者、寺地遵は前記「姑蘇繁華図」、「鴻雪因縁図記」“Views of 18th Century China"「中国地方志集成・郷鎮志専輯」などによって、清代では、(1)営〓または〓(緑営軍が駐屯し、望楼、屯所・狼煙台、哨船からなる水路管理施設)がまず大運河に5〜10里間隔で設置され、(2)ついで〓は当時商工業の最大地区、蘇州-松江府間の7大水路網に設けられ、(3)さらに蘇州・松江府・嘉興府市鎮の主要水路の出入口に都市の標識体である虹橋とセットで設けられ、(4)明末の混乱期に水辺都市に多く見られた関柵・水柵・巷門などはそのために不要となり、水辺都市の開放空間の確保と住民、特に富裕商人層の安全性が保障され、(4)〓による運河・水路・市鎮の安全性確保こそが、清代水辺都市(市鎮)の爆発的発達の基礎条件であったことなどを明らかにした。従来、水路・橋・広場・舟などの複合関係から江南水辺都市構成を論ずる研究は多く見られたが、上記のごとき水辺都市固有の安全保証性の確立を通しての分析は例を見ない(1999年度発表予定)。
|