使闕(官職の公募)について、北京大学〓小南教授は専ら預使員闕(現職在任中の後任選考)と解するように、後任の人事は一般に早めに決められる。今回、その開始時期について調査したところ、知州・通判の場合、だいたい着任後半年から10か月程であることが判明した。南宋の『慶元条法事類』によれば、官僚の実際の着任は交替の時期より100日後とみなされていたが、北宋では必ずしも明らかではなかった。資料に当たってみると、使闕の開始時期は交替(去替)の時期或いは着任(到任)の時期で表わされており、一見錯綜しているが、『慶元条法事類』の規定を北宋に適用してみれば全て解釈がつくのである。使闕の期限は1日・5日から半年に及んだが、期間内に応募がなければ、募集方法を変えざるをえない。また、辺境の繁難な職務は、現地地方長官の辟置(任意採用)によらざるをえない。しかし新旧党争のあおりで辟置を止めて、その人事を中央の吏部に回収したこともあったが、直ちに応募するものが現われなくなったのは当然である。その際、使闕の開始及び期限が問題となるのである。北京大学訪問によって、使闕を始めとする銓法問題全般にわたって示唆を得ることが多かった。また、李綱の招安策については後日問題としたいが、視野を広げて、義和団義民論についてもいささか当たってみた。関連して、清末の地誌『光緒順天府志』の諸版本を調査した。李綱については、頼山陽が編纂した詩文集があることは殆ど知られていない。両者の関係も課題として残る。
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