宋代の地方官の着任時期は、内地のものが「授勅年月」であるのに対し、川広(四川四路と広南東西路)のものは、赴任の不便を考慮して「到任年月」とされていた。煕寧3年より施行された八路(川広と福建、荊湖南路)定差法は、中央の吏部が担当していた地方官の選考を八路の転運司に代行させ、地方官の中央への往復の労を免除するものであったが、その際の闕次(「使闕」即ち公募開始時期。任期が二年の場合は半年、三十か月は一年、三年は一年半)は、従来の「到任」の時期を基準としたのである。元豊8年、旧法党の天下となり、定差法も廃止されたが、急激な変更には抵抗があったのであろう、翌年の元祐元年6月、季節ごとに吏部と転運司が交互に地方官を選考することになった。そしてこの年10月、知州・通判の任期短縮に伴い、「係選処」とその「余」のものは、従来の闕次の基準であった「去替」と「到任」を相互に交換させられた。「係選処」と「余」は、それぞれ吏部と転運司を意味し、また「去替」とは一昨年・昨年と考察してきたように、ここでも交替即ち任命の時期を意味し、上に見てきた「授勅年月」そのものと考えられる。そもそも定差法の下では赴任の労は免除されたのであるから、闕次の基準「到任」を「去替」=「授勅年月」に変更して差し支えなかったのである。従って「去替」と「到任」の基準交換は、定差法の復活をも物語っているのである。以上の研究の成果を「宋代八路定差法と使闕」と題し、平成12年8月に保定市で開催された国際宋史研討会にて発表した。清末北京図の研究の成果は発表出来なかったが、資料を追加しつつあり、近く公表したいと思っている。
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