アラビア半島には各地に偶像神が祭られ、巡礼行事が行われていた。メッカのみを唯一の聖地、巡礼地とみなす従来のメッカ中心史観は改めねばならない。各地の巡礼地では、複数の部族が役割分担をして、巡礼者の安全保障、偶像、聖地の管理、巡礼儀式の執行、市での商取引の管理などを行った。半島全域にわたって、このようなシステムを確保するために、当時の暦は太陰太陽暦が用いられていた。シリア方面では夏、湾岸では秋、イエメンでは冬、メッカを含むヒジャーズ地域では春に巡礼祭が行われたが、このため、純粋な太陰暦に数年に一度閏月を入れて、季節のずれ、すなわち太陽暦とのずれを調整していたのである。純粋な太陰暦は29.5日の12ヶ月で、一年は354日となる。これでは、毎年、11日ずつ、太陽暦とずれていくので、約3年に一度閏月を挿入して、一年を13ヶ月としたのである。メッカで閏月の挿入を含む、暦の管理をになっていたのが、キナーナ族であり、職名をナースィーと呼んだ。閏月の挿入に関して最大の問題は、どのような周期で閏を挿入したかである。メッカへの巡礼はユダヤ、キリスト教徒も関わっており、このためユダヤ教の過越祭、キリスト教の復活祭とあわせるため、ユダヤ暦の閏の周期を導入したと思われる。預言者ムハンマドはメッカ占領の後、この閏のシステムを廃止し、ナースィーの職務を禁じた。このため、純粋な太陰暦が導入され、メッカへの巡礼は毎年、11日ずつ、ずれていくことになった。従来の巡礼、交易システムを廃棄し、メッカを唯一の巡礼地とする新しいシステムをムハンマドは導入したのである。イスラム暦は、ジャーヒリーヤ時代の暦をひきずったものではなく、新たなイスラムの暦なのである。
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