1.内藤藩が作成した幕府領細嶋に唐船が漂着したときの対処マニュアノレ(延享4年11月)の抄本を、宮崎県立図書館で発見した。唐船漂着情報の伝達、細嶋出役の人員等、宿割り、庄屋の役割に至るまでの詳細な記録である。残念ながら原典事項等が記されていない杜撰な写本であり、ほぼ同内容の写本が明治大学刑事博物館に存在するけれど、県立図書館本だけに残されているものも多い。12年度も継続して調査したい。 2.内閣文庫所蔵『唐船一件』なる史料を発見した。本書によって次の新知見を得た。 (1)日田代官が代替りごとに長崎奉行に漂着唐船への対処方法を問い合わせて確認し、間違いの無いようにしたこと。本書は、その遺り取りの文書外の綴りであることを明らかにした。 (2)日向国沿海の天領に異国船が漂着したときの取扱につき、(1)延岡藩・高鍋藩・飫肥藩が分担して対処していたこと。(2)延岡藩主有馬清純が元禄4年(1691)に越後に転封になり、翌年に細嶋が幕府領となった。このときから高鍋藩が細嶋漂着の唐船に対して番船引き船を出し、長崎回送も負担したこと。(3)のち享保7年(1722)に、東北風により高鍋藩船が北上できないときは、延岡藩牧野氏が担当することとなり、以後内藤氏が引継いだこと。(4)那珂郡下別府海表に唐船が漂着したときは、飫肥藩伊東氏が番船等を出し、長崎に回送する手筈であったこと。 3.日向各藩に漂着した唐船が、長崎に回航される途次に延岡を無事に通過したことについて、延岡藩内藤氏から老中への届書写しの存在(明治大学刑事博物館)を確認した。さらには隣藩毛利氏からの老中への届書が内藤家に保管されていることから、国送りの藩相互に幕府に対して齟齬無きように配慮したと推察できる。 4.日本人の海難難民に清朝皇帝が賜与した鍍銀の龍牌の現物を、松浦歴史史料館で発見し撮影した。
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