1 日向国沿海4藩は、各々の領海内に漂着する唐船に責任を負う。が、高鍋藩は日向国北部の良港・美々津をもち、南部にもまた日向国南端の福島を飛び地として領有したため、結局、日向灘の沿岸一円の海防に責務を負っていた。 2 日向国諸藩での海難難民の救護・長崎回送のシステムを明らかにした。すなわち(1)難民の上陸を許さず、船中に軟禁する。(2)ただし破船の場合は仮小屋に収容する。(3)人質をとる。(4)漂着地の藩は、漂着に至った経緯・氏名・年齢・身分・宗教事項・積荷の内容と数量を記録して、老中・長崎奉行・日田代官に報告し、隣藩にお知らせし、回送ルートの各藩にも領海通過、支援の依頼をする。(5)漂着地の隣藩もまた老中・長崎奉行にお届けすると共に、難民や漂着物を監視する。また要請があれば漂着地の藩を支援する。(6)漂着地藩は回送ルートの各藩に薪水等の供与や曳航等の援助を受けながら長崎に至る。(7)回送経路の各藩は、回送船団の通過情報を江戸・長崎に届ける。国送りの藩は幕府に対して齟齬無きように配慮し、相互に情報交換をしていた。(8)長崎に到着したら、唐人を未決囚牢獄に収容する。一貫して犯罪者と同様の取扱をした。以上のように相互監視の中で、漂着唐船・唐人の長崎護送が厳格に行われていた。 3 日向国の幕府領、細島と下別府村に漂着した唐船・異国船について、細島では延岡藩・高鍋藩が、下別府では飫肥藩が番船・引船を出して、長崎に回送するように定められていた。御領のみならず私領への唐船等漂着についても、日向国各藩は日田代官にお届けしていた。先ずは日田から元締め手代を富高の出張陣屋に派遣した。船数が多い場合等には日田代官が自ら富高に出向き、現場には手付手代を派遣する。つまり日向国は日田代官が管轄すべき地域だったわけである。
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