本研究では、ヨーロッパ近代社会成立に関する英仏基準の国民国家、国民経済成立史を相対化するために、連邦制的な統合原理を継承していたオーストリアにおける「挫折した市民革命」とされてきた三月革命期の変革内容を、特に16世紀に成立してきていた身分制地方等族会議の改革と立憲君主制への移行の過程に即して解明した。主として本研究では、刊行済みの全国議会議事録としての統一ドイツ国民会議(フランクフルト・アム・マイン、パウロ教会)議事速記録全9巻やオーストリア帝国議会(ウィーン、王宮付属冬季乗馬学校=現スペイン乗馬学校)議事速記録全五巻(それぞれ国民請願書目録を含む)の他に、これまで全く等閑に付されてきた身分制地方等族議会議事録(ウィーン・下部オーストリア州ラントハウス所蔵、グラーツ・シュタイエルマルク州ラントハウス所蔵等)の分析を行った。その結果、オスマン=トルコの侵攻を契機として常に王権屋皇帝権と緊張関係を維持しつつ(無侵害状)地方自治行財政を発展させてきた諸身分、特に自由主義貴族層が帝国国制全体の改革の基本方向(農民解放と全国代表制原理の導入、等族財政改革)を明確にしていたこと。その中でも特に州主権自治行財政を強固に守りぬくことによって「地域主義」というヨーロッパの伝統を維持したことが明らかになった。 また東中欧の多民族帝国としての地域統合構造のなかに、今日のヨーロッパ統合の源流が見出された。1871年のプロイセン・ドイツ帝国の成立以来、またナポレオンの大陸制覇の過程で、常に旧時代の遺物・反動インターナショナルの枢軸と呼ばれてきたハプスブルク帝国統治体制の持っていた世界史的意義について新たな光を投じる可能性が開けてきた。同時に「ドイツ国民」の神聖ローマ帝国と呼ばれてきた中欧の地域統合としてのハプスブルク帝国史の非民族的・非国民的なむしろ汎ヨーロッパ的な性格が解明された。
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