まず、ニュルンベルクを例に、シェンク手工業は職人たちが職斡旋権と無償供与および裁判権を三位一体として行使していた職人組合であること、また親方が無償供与の加担を義務付けられていたことを確定した。1570年代からの公権力の抑圧に対して職人たちはある程度職斡旋権と無償供与を守り通したが、裁判権については譲歩している。とくに、1573年以降公権力は個々の同職組合・職人組合で対応を変えていること、逆にいえば個々の同職組合・職人組合の働きかけで伝統的権利の復活のあり方はさまざまである。次いで、アウクスブルクの職人組合と職人運動は当初ニュルンベルクと同一の過程を見せるが、1590年代に公権力の側が大幅に譲歩をみせている。すなわち、職人が旧来の権利を復活させていた。この展開は、シュトラースブルクやバーゼルの展開と軌を一にしたものである。 職人の社会的存在形態は、暴力と名誉を切り口にするとよく観察できる。職人は暴力的であるが、その暴力は解決をみこしたものであり、集団の規範を守り外に対して顕示するためであることがわかった。また、名誉にかかわる暴力が多いことも特徴であった。その名誉とは、犯罪者やごろつきとは異なる、職業人として「まとも」「まじめ」であることを意味した。その名誉が傷つけられると、過剰に反応したのである。公権力は、侮辱事件をその公的裁判権のもとに置くことを建前にしていたが、職人はこの点では親方と結託して、親方・職人裁判権の管轄事項とすることもあった。民衆のサブカルチャーはきわめて根強かったのである。
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