ドイツの職人遍歴を量的に把握すると、ニュルンベルク、アウクスブルクという南ドイツの大都市では、親方の1〜4倍の職人が毎年遍歴してきていた。その出身地はドイツ各地・北欧・東欧に及び、その範囲は16〜18世紀と時代とともに広まっている。質的にみれば、それは基本的には職探しであるが、見聞を広める文化的要素も強い。16世紀後半以降にいくつかの同職組合で設定される遍歴強制は、一定の効果をもっていた。 こうした遍歴職人を受け入れるネットワーク・システムが、職斡旋権と無償供与を行う職人組合の存在である。かかる職人の権利が強い手工業部門はシェンク手工業と呼ばれ、職人たちが職斡旋権・無償供与・裁判権を三位一体として行使していたそれだけではなく、親方が無償供与の一部負担を義務付けられていた。16世紀の公権力の抑圧に対して職人たちはある程度職斡旋権と無償供与を守り通したが、裁判権については譲歩した。とくに、1573年以降公権力は個々の同職組合・職人組合で対応を変えている。逆にいえば、個々の同職組合・職人組合の公権力との力関係で、三位一体の権利復活のあり方はさまざまであった。 職人は、集団の規範を守り、外に対して連帯を顕示するために暴力的となった。しかし、その暴力は解決をみこしたものであり、名誉にかかわる暴力が多かった。その名誉とは、職業人として「まとも」「まじめ」であることを意味した。その名誉が傷つけられると、過剰に反応した公権力は、侮辱事件をその公的裁判権のもとに置こうとしていたが、職人はこの点では親方と結託して、親方・職人裁判権が行使されることもあった。それは、民衆のサブカルチャー規範がきわめて根強かったためである。
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