882年の教皇ヨハネス8世の暗殺後は、教皇が世俗権力者の傀儡に堕する事から、彼の死は「教皇の暗い時代」の開幕とされてきた。しかし近年、同時期にローマに大修道院が多く寄進されるなど、ローマ教会については逆に成長期にあたっている事が指摘されるようになり、「暗い時代」という評価の再考の気運が高まってきている。本年度の研究では、教皇を傀儡化した北部・中部イタリアの世俗権力者が一様に親ビザンツ政策を採っていた点に着目し、この二つの政策には何らかの接点があるのではないかという独自の観点から、教皇傀儡化の先鞭をつけたとされるスポレート公の対教皇・対ビザンツ政策を対照・分析した。 当時ビザンツ帝国は南イタリアを再征服し、イタリア半島における最強勢力に返り咲くとともに、教皇の要請によりローマ防衛のための艦隊を教皇領に常駐させていた。これ以前にはスポレート公は教皇に対して軍事行動を採っていたが、以後は親ビザンツ政策上ローマの軍事占領は断念せざるを得なくなる。しかし、スポレート公にとって幸いな事には、ビザンツは教皇領の内政には不干渉の態度を貫いていた。ここに教皇傀儡化という方策が採られた理由があると考えられる。つまり教皇の傀儡化は、教皇領の実質支配という野望と、親ビザンツ政策とを両立させるために採らざるをえなかった方策であったと評価できる。スポレート公が採った教皇傀儡化政策は、オットー一世出現以前のイタリアの世俗権力者の支配形態の原型であり、この政策はビザンツ帝国の影響力の回復という当時の状況に対応したものであった。そして「教皇の暗い時代」にローマ教会が逆に組織的成長を遂げるのも、親ビザンツ政策を採った世俗実力者達は、少なくとも見かけ上は、ローマ教会や教皇領を脅かす存在であってはならないという事情のもと、教会のパトロンという体裁を装う必要があったものと結論づけた。
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