十世紀前半におけるローマ都市貴族の最大の権門テオフィラクトゥス家の党首で、932年から二十年余りの間ローマで独裁政治を行ったアルベリクス二世は、クリュニー修道会改革運動をローマ教会に導入して教会の刷新に寄与した事で知られている。さらにはローマ周辺の廃れていた数多くの修道院の修復に着手し、また多くの修道院を新設するなど、彼はローマ教会のパトロンとして高い評価を史家から受けてきた。その一方で、彼はローマ教皇を傀儡化した最悪の支配者という否定的評価も受けてきた。事実、彼が次々と意のままに立てた四人の教皇の末路は廃位・暗殺という殺伐としたもので、彼の行動には教皇に対する尊敬の念は全く窺うことはできない。ローマ教会の最大のパトロンにして同時に教皇権失墜の元凶という彼の矛盾する姿は、長年史家を戸惑わせてきた。本研究では、アルベリクスのこの矛盾する二つの政策について、彼の信仰心といった宗教史的観点ではなく、世俗政治家としての評価に論点を絞って、当時のイタリア半島情勢の中で彼の相矛盾する行為の意図を考察した。当時旧フランク軍事貴族達は、九世紀末のカロリング朝断絶に乗じて北部・中部イタリアの覇権を争う群雄割拠状態にある一方で、同時期南イタリアの再征服事業により半島部における政治的影響力を回復しつつあったビザンツ帝国には全員忠誠を誓い、言わばビザンツの許容範囲内での勢力争いに明け暮れていた。彼らの共通の野望の一つはローマ支配であったが、九世紀後半に対アラブ海賊からの防衛のためにビザンツ皇帝が艦隊を提供して以来ローマはビザンツの保護下にあったため、混乱期であるにも関わらず十世紀のローマでは外部勢力は親ビザンツ政策上の配慮からローマ教区での本格的軍事行動は控えて、ローマ教会内に自分の派閥を作り子飼いの教皇を立てる事で間接的・遠隔的にローマを支配するという手段をとっていた。つまり当時のローマ教会は外敵のローマ支配のためのトンネルの役目を果たしていたのである。この観点からアルベリクスの政策を見ると、クリュニー修道院運動導入は教会の腐敗を正す事によってローマ教会の脱政治化の推進であり、自らの傀儡となす事が教皇が外部勢力の手先となる事の防止策であるのと連動する政策であった事が判る。以上から、アルベリクスの二つの政策の一貫性と、その背景となったビザンツのイタリア半島での影響力の回復とが明らかとなった。
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