本研究の命題は、九〜十一世紀というビザンツ帝国が南イタリアの領土を回復した時代に、ビザンツ=西方交渉史が如何に展開したかを考察する事にある。先行研究は、この時代についてはオットー朝三代について主に皇帝称号を巡る外交問題を扱ってきた。今回の研究成果は、先行研究が従来無視・軽視してきた時期、カロリング朝衰退からオットーの出現までの群雄割拠状態の時期に焦点を当て、外交ではなくイタリア半島情勢の歴史的展開を取り扱った。この時期のイタリア史については、教皇が世俗権力者の傀儡と堕す教皇座の最悪の時代とされる。しかし他方では、同時期にはローマ教会とラヴェンナ教会の合同が成り、クリュニー修道会運動が導入されるという、ローマ教会にとっては逆に成長・刷新期に当たるという矛盾した現象が見られる。本研究は、教皇を傀儡化した勢力が例外無く親ビザンツ政策を採っていた点に着目し、前記の矛盾現象の裏には、ビザンツ帝国のイタリア半島での勢力回復があるのではないかという着想のもとに考察をおこなった。対イスラムの目的で艦隊提供を受けた事で、当時のローマは事実上ビザンツの宗主権下に復帰していた。教皇領は理念上は中世イタリア王国の領土でもあったから、教皇領は二重の宗主権下にあった事になるが、当時北部・中部イタリアの諸勢力は覇権争いの中で例外無くビザンツの援助や同盟を求めていた事を考えると、二つの宗主権の内ではビザンツが優勢であった。その為、彼らがローマを支配する場合は、ビザンツの許容できる形をとる必要が生じた。教皇の傀儡化は、この要件を満たす一種の妥協の産物であったし、また同様の理由で表面的にはローマ教会のパトロンの姿を装う必要があったのである。つまり教皇座の失墜とローマ教会の発展という相反する同時代現象には、ビザンツ帝国の南イタリア再征服という同時代現象の副産物という側面を指摘する事ができるのである。
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