本研究では、弥生時代、古墳時代の青銅器にみられる摩滅や、破砕による細片化の状況などを検討し、この時代に日本列島において青銅器が持っていた意義を考察した。主な成果として、以下の2つの仮説を提示した。 (1)銅鐸祭祀終焉と共同体の崩壊 扁平鈕式までの銅鐸は、型式の古いものほど内面突帯の摩滅が著しい。扁平鈕2式のものにはほとんど摩滅が認められない。一箇所から複数出土した場合にはもこの傾向が認められることから、扁平鈕2式が製作されてまもなくの後期初頭ごろに銅鐸埋納のピークがあると考えられ、その背景には銅鐸祭祀を行ってきた共同体が解体するという社会構造の変化を推定した。突線鈕式段階では、近畿式にはほとんど摩滅が認められないのにたいして、三遠式にはかなり摩滅しているものがあり、近畿と東海で弥生後期の銅鐸使用のあり方の違いがうかがえる。 (2)弥生後期後半以降の青銅器の管理 弥生後期後半〜終末期には、中国鏡の破片が広い地域で出土する。破片の状況は研磨されたもの、穿孔されたもの、顕著な使用痕のないものなど多様で、鏡式、出土地域による違いは認められなかった。しかし、ほとんどの破片が10cm未満にまで割られていることに注目し、この時期に日本で出土する小形中国鏡の面径が約10cmなので、それ以下にすることが求められたと考えた。また、銅鐸も人為的に破砕したと思われるものがこの時期に広く分布するが、やはり10cmをこえるものは少ない。古墳から出土する文様不鮮明な漢鏡については、弥生後期以来、長期に使用され続けた痕跡であると判断した。これらの状況を総合し、弥生後期後半の段階で、完形大中形中国鏡、完形小形中国鏡、小型倣製鏡、中国鏡片、銅鐸片という威信財の序列を創出してそれをコントロールする政治的中心がこの時期に列島内に生まれたことを想定した。
|