前方後円墳をはじめとした古墳時代の首長墓を、各地で実際に踏査した結果、次のようないくつかの知見が得られた。第一は、東北・関東地方の3〜4世紀では、前方後円墳よりも前方後方墳が卓越していたが、5世紀以降はそれらは一斉に前方後円墳や円墳などに転換していく。たとえば、那須地方では3世紀後半ごろから、6代におよぶ前方後方墳の首長墓が造営されつづられたが、4世紀末で系譜が途絶し、それ以降はまったく首長墓が見当たらなくなってしまう。こうした事実は偶発的なものではなく、北陸・東海地方などでも顕著であるから、その背景に広範な地域の動向を規制しえた政治権力が発動したと考えたほうが理解しやすい。 第二に、北陸地方などでは平面形が歪んだような前方後円墳と、シンメトリカルで精美な前方後円墳とが4世紀には築造されているが、前者の場合、側面観に重きを置き、平面形はさほど重視しなかったとみなすならば、広い地域で墳丘設計図があって相似した前方後円墳が各地で構築されたと認識されている事実と一見、矛盾する。墳丘に対する意識が地城や個々の造営主体によって異なっていたとすれば、前方後円墳という画一的な墳墓の意義をもうすこし考えてみる必要がある。あるいはそこに、中央政権と地方首長の政治的親近感を看取することも可能であるかもしれない。 第三に、九州では横穴式石室がいちはやく首長墓に採用されていくが、それは中国大陸や朝鮮半島では容器類の副葬と密接な関連をもって、亡き首長の死後の世界を表象するものであったが、九州ではそういった動向はおくれる。たとえば、日向地域の装飾古墳では首長の遺骸を安置する石屋形にまず、武器や武具などが辟邪として描かれていたが、6世紀中ごろになってそれらが横穴式石室の壁面全体に拡大されていく。そしてそれとともに、須恵器や土師器の容器類の副葬が一般化していく。つまり、死者のための空間として、横穴式石室が機能しだすのである。肉体が朽ちても霊魂が地下で生きつづけるといった、霊肉二元論の観念が首長の間にやっと普及しはじめるのである。このように、首長墓のありようを通して、中央政権と地方首長の政治関係の変遷やその画期、あるいは古墳時代の支配層のイデオロギーの変質など、幾多の問題を考えていくことができた。
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