全国各地の主要な前方後円墳をはじめ、前方後方墳、大型円墳、大型方墳などの首長墓を資料化し、そのなかの主要なものを実地に踏査して、いくつかの首長墓系譜を抽出した後、それぞれの特質を明らかにした。いっぽう、大和政権を構成していた有力首長層の墳墓、大和・柳本古墳群、佐紀古墳群、馬見古墳群、古市古墳群、百舌鳥古墳群の畿内5大古墳群を具体的に分析し、それぞれの消長を通して大和政権の構造を探った。 前方後円(方)墳や大型円(方)墳の首長墓には、大和政権ならびに地域首長の二重の政治意志が表出されたが、そのどちらかが前面に押し出されるかによって、墳丘形式や墳丘外表施設、あるいは埋葬施設の種類や副葬品の多寡などが決定される。そうした観点のもと、主な考察を要約すると、第一、17代抽出できた大王墓は一系的な変化を見せることから、古墳時代の大王権は連続性が強く、その過程において断絶や交替などはあり得なかった。第二、4世紀後半ごろから5世紀後半ごろにかけての大和政権は、大和・河内・和泉の各地域に蟠踞した4つの有力首長によってその中枢が担われていた。そして4有力首長も各々が独自に首長層や有力成員層をしたがえ、地域支配のための職掌を分掌していた。第三、共同統治していた4有力首長の代表が大王であったが、5世紀末ごろからは大王権が独立しはじめ、「天皇」にいたる道程を歩み出す。 上記したような構造をもった大和政権の3〜4世紀における地域支配は、第一、各地で弥生時代以降、形成されてきた地域政権の代表である大首長を媒介としたものであった。つまり、各地の地域政権内部では大首長とそれを支えた小首長との間には、大和政権とは無縁の政治関係が維持されていた。第二、5世紀になると大和政権は地域政権を解体しはじめ、それまでの大首長とは別の首長にテコ入れをしたり、その地域的統合を援助したり、といった形で地域支配を浸透させていく。それとともに、地域政権内部の首長層の序列化という形での再編成を実施していく。
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