研究概要 |
(i) 本州における中世瓦は,近畿の京都と大阪と奈良の三者が大きな柱となっていることが判明した。京都のVI期(1380〜1430)の瓦は,関東に大きな影響を与えている。また,これまで全く気付かれなかった和泉の瓦が,京都・鎌倉へ運ばれていることが判明し,和泉の瓦工の武蔵への進出を明らかにした。 (ii) 中世末期のVIII期(1490〜1575)において,奈良・大阪・京都の相互に同范関係をもつ軒平瓦を調べ,その製作技法が瓦当はりつけ技法と顎はりつけ技法の混在型であることを確認した。応仁の乱以後の近畿の混乱により,奈良・京都の瓦工が周辺地域へ逃散・離散し,その離散した瓦工の再編成が,信長・秀吉の城郭期の瓦の生産過程で行なわれるという見通しを得た。 (iii) 九州の中世瓦の年代の細分を行ない,V期(1333〜1380)以降,本州とは異なる九州の独自性を発見した。その独自性は,丸瓦の吊り紐と,軒平瓦の顎部後面のタテケズリにあらわれている。沖縄の「大和系瓦」と称されるものは,九州の二つの独自性を備えており,九州からの瓦工の移動であることが判明した。沖縄の中世瓦の年代は,1333年から1400年までに納まるという見通しを得た。 (iv) 中国・朝鮮から日本へ瓦そのものが運ばれた例として,12世紀の博多の「北方系瓦」及び16世紀の対馬金石城・月山富田城の滴水瓦を調査した。金石城と富田城例は同范で,かつ胎土も同一であることが判明した。
|