(I)本州における中世後半の瓦を、中世VI期(1380〜1430)・中世VII期(1430〜1490)・中世VIII期(1490〜1576)に細分し、編年した。製作技法の上からみると、VI期には、丸瓦における吊り紐および玉縁面取りの定形化が生じる。VI期中葉以降に、軒平瓦を瓦当下縁に面取りが生じる。VII期には、軒平瓦の瓦当外区全体を削り、中世VIII期は、すべての地域で、軒平瓦は顎貼り付けとなる。 (ii)本州における中世後半の瓦を、大和・京都・和泉・播磨・紀伊・尾道・鎌倉・常陸・上野・下野・武蔵の各地域に分けて細かく論じた(詳細は、『中世瓦の研究』に所収)。 (iii)九州の中世後半の瓦には独自性があって、丸瓦部吊り紐が本州と異なる九州タイプであり、軒平瓦の顎部瓦当裏面がタテケズリである。中世VI期からVIII期まで(1380〜1575)の瓦を、博多、太宰府地域、久留米地域、宇佐地域、臼杵地域、山口地域の各地に分けて細かく論じた(『中世瓦の研究』に所収。) (iv)沖縄の中世瓦について、年代の細分をおこない、九州および高麗の瓦との関係について論じた。 (v)中世末期のVIII期(1490〜1575)において、奈良・大阪・京都の相互に同笵関係をもつ軒平瓦を調べ、その製作技法が瓦当貼り付け技法と顎貼り付け技法の混在型であることを確認。応仁の乱以後の近畿の混乱により、奈良・京都の瓦工が周辺地域へ逃散・離散し、その後瓦工の再編成が城郭期の瓦の生産過程で行われるという見通しを得た。
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