これまで、アイヌ文化期に行われた農耕は、鋤先や鍬先といった鉄製の農具を使用せず、したがって畝をもった畠も造らず施肥もしない、極めて粗放的なものであったされてきた。しかし、虻田町高砂遺跡では1663年に噴出した有珠b火山灰に埋積された畝をもった畠跡が200×300mの範囲一杯に分布しているのが発見され、伊達市ポンマ遺跡でもやはり有珠b火山灰で埋積された畝をもった畠跡が発見された。ポンマ遺跡では1640年に噴出した駒ケ岳d火山灰の下からも畠跡が発見され、1640年以前から1663年までの間には、噴火湾岸で畝をもった畠が造られていたことが明らかになった。 高砂遺跡及びポンマ遺跡から発見された畠跡は、長さ10+αmで、畝間の心々間距離が0.6m〜1.1mの幅をもったものが、十列前後並んで一単位(一筆)となったもので、一筆あたりの規模は小さいが、小さな単位の畠が繰り返して造られていたことを物語るものであった。 ポンマ遺跡の畝の土壌中からはヒエとアワの炭化種子や、畑地雑草のアカザの種子も多量に出土しているとともに、土壌中からは吸虫類の仲間と推定される寄生虫卵も発見され、施肥が行われていたことも明らかになった。 一方、農具である鍬先や鋤先も1667年に噴出した樽前b火山灰や1739年に噴出した樽前a火山灰下かも発見されはじめ、17世紀から18世紀初頭まで、鉄製農具が使用されていたことも明らかになった。
|