純粋書記規範に過ぎなかった仮名遣いを日本音声学の成立にまで至らしめた直接の契機は、仮名遣いの説明をいろは歌によってではなく五十音図を採用したことにあった。しかし、音図は、成立こそ古いものの世俗の知識世界に流布したものではなかった。音図は、もと密教の悉曇学のアルファベットである悉曇章に起源を発するもので日本語音の配当図では無論ありえない。これが平安時代後期、明覚によって「日本化」を遂げた後であっても悉曇学侶にとっては日本語の音図という意識はなかった。日本悉曇学は、鎌倉時代に日宋貿易を通じて『韻鏡』が輸入された際に、これをよく理解して後世に『韻鏡』注釈を伝えた。その過程で『韻鏡』注釈書に音図が付載されたものと見られる。室町時代頃までの『韻鏡』注釈はなお悉曇学内で行われたので、これに付録された音図の知識もまた悉曇学内にとどまった。これが世俗世界に流出するのは、公家が『韻鏡』を占いの道具に使ったことがきっかけである。『韻鏡』は、長らく漢字反切を説明したものと考えられていたことから、これを利用して人名や年号の吉凶を占ったのである。占いを介した『韻鏡』に対する世俗の関心はこの後も継続し、近世には在京世俗の儒者による『韻鏡』注釈書が盛んに出版され、これに付録された音図もまた世俗世界に流出するに至った。契沖によって音図を古代日本語音を過不足なく配列した「五十音図」としての地位を与えられて仮名遣いの説明原理として十分な威力を発揮したのである。かように、日本音声学(固有名は音韻学)の成立は、空海以来の悉曇学に鎌倉時代の『韻鏡』注釈が加わり、さらに院政期以来の仮名遣いが近世の学術の変革期に絶妙な形で合流して立ち上がったわが国の誇るべき学術の金字塔である。
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