本邦古辞書中、倭訓を記した最古のものである『新撰字鏡』は、その序によれば、僧昌住によって昌泰年間(898〜901)に成った。同じ古辞書であっても、十二世紀に成立した『類聚名義抄』に比して、この辞書は雑多であって、記載の内容も書式も統一されておらず、また、個々の訓義についての出典引用を欠く。それが、玄応撰『一切経音義』(七世紀)、顧野王撰『玉篇』(六世紀)、陸法言撰『切韻』(七世紀)を、未整理のままに漸次増補したためであることは、序の内容からも判断される。それを解きほぐして分析することは、既に行われている。しかし、それによって遡った訓詁を、付された倭訓と対比し解析する研究はまだなかった。 本研究は、そこに着目し、この訓詁を徹底することから個々の倭訓の語義と語性を明らかにし、従来漫然と比較されていた『萬葉集』を始めとする八世紀の文献の訓み方に活かした。『萬葉集』の歌は漢字で記される。そのうち、訓字で記す場合、その字義が、表そうとする倭語の意義と対応しなければならない。韻文という性格上、個々の語の意義は多義的であることが多く、用字の選択に訓詁は必須であった。それらを読み解くためには、逆に個々の語がそれぞれの漢字に結びつく過程を明らかにする必要がある。結びつきは、九世紀以前にも漢文訓読によって形成されてきた。例えば「詐 アザムク」は、だます意だとされるが、古辞書にあがる漢字は言語行為に関する字義であり、そのことからアザ・フク、つまり実のないことを言うという原義がたどられ、そこから歌の解釈も改められる。 本研究は、右の方法を八世紀の文献を解読する極めて有力な方法として確立した。
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