1570年代から王政復古期までの演劇作品の渉猟はほぼ完了した。現在はこれらの文献を精読・分類しているところであるが、事前の予想に反して「聖母」「娼婦」ともに、テクスト内に明示的に表象されていることはきわめてまれである。見るべきは暗喩の横行であり、「聖」と「俗」両極端ともに、明確な言説化が回避されたことが窺い知れる。タブーを言説化し、規定することで制度の内へ取り込もうとするような、フーコー的な発想からは、かかる定義の空洞化は説明しにくい。明白な形で定位されざる二つの記号は、しかしながら、とりわけ都市喜劇群においてCharity vs.Chastityという経済のメタファに置き換えられるとき、同一の土壌で議論しうる比較対象たりうる手応えを得つつある。 トマス・ミドルトンの芝居のいくつかでは、貞淑は欲望の対象・代価として流通し始めるや否や、その価値を暴落させる。また、トマス・ヘイウッドの『エドワードIV』では喜劇『靴屋の休日』にもみられる主題、すなわち貴族による市民の妻の誘惑のモティーフが、男性の誘惑の前にその「価値」を下落させない女性を描きうるものとして反復される。「動かない価値(貞淑)を私物化するために、一度だけ動かす」というロマンスの原理を際立たせるために、そこではあくまでも世俗のレヴェルにおいて、女性の価値は「聖母」と「娼婦」のステレオタイプのなかを横断するのである。 ステレオタイプは生身の人間とは違う。だがそのステレオタイプに回収されることへの恐怖が、モラルとして人間を縛るのだ。Chastityを「立証」することはできない。にもかかわらずそれが“marketable"であるとは、いったいどういうことなのか。次年度はリサーチの範囲を当時の道徳律一般を論じた文献に拡大し、市場経済下における欲望の近代化について、踏み込んだ研究をする予定である。
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