研究概要 |
現在、漱石の手沢本に残された書き入れをテクストとともに読む作業を続けている。これはその中間報告である。漱石が「文学書杯は読まない心理学の本やら進化論の本やらやたらに読む」(明治35・2・16)と書いた前後から『文学論』執筆までの読書体験はとりわけ重要である。漱石の唯美主義文学やラファエル前派とのかかわりは、佐渡谷重信や江藤淳らがいうほど深くはなく、世紀末の支配的な思想であった社会ダーウィニズムとのかかわりの方がより深いことを伺わせるのである。B.Kidd,Social Evolutlon/Principlesof Western Civilisation;G.Le Bon,Psychology of Socialism;K.Pearson,The Ethicof Frcethougt;M.Nordau,Degenerationなどはいずれも明らかに社会ダーウィニズムのイデオロギーに満ちた本であることがわかる。漱石はこれを科学の本として読み、かれらが一様に繰り返す「生存闘争は文明の進歩に不可欠」というテーゼを受け入れ、ノートに「Competitionハprogressヲ意味スevolutionノlaw.Retrogression Weismann Kidd」と記すまでになる。しかし、それにもかかわらず、『それから』や『虞美人草』に散見できる文明批評は生存闘争や進歩に批判的である。なぜであろうか。これは漱石が独自の文明批評の視点を発展させたことと無関係ではないけれども、かれにその基本的な視点を提供したのも、実は、社会ダーウィニズムのもうひとつのテーゼである“Retdogression"だからである。この別の側面については次年度に詳しく報告できるはずである。
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