本研究課題においては、言語を静的な構造からではなく、動的な談話構築の観点から分析することにより、指示対象の構築・代名詞や定名詞句の指示作用・代名詞による照応過程を明らかにすることを目標とした。主として会話フランス語のコーパスの分析から、従来の「先行詞・照応詞」モデルではうまく処理できないことが、本研究期間の早いうちから明らかになり、それにかわるモデルとして話し手と聞き手の心的モデルとしての「談話モデル」を開発した。談話モデルは「共有知識領域」「発話状況領域」「言語文脈領域」の3つからなるモデルである。「共有知識領域」には百科事典的知識と個人的エピソード記憶が格納され、日本語ではアの領域に相当する。「発話状況領域」は話し手・聞き手と発話の場を含み、現場指示の領域である。「言語文脈領域」には指示対象が登録され文脈指示の領域である。本研究による日本語の指示詞の分析により、文脈指示にはソとコのみが用いられ、アは文脈指示ではないことが明らかにできた。 また英語のShut the door.のようなtheの用法は外部(現場)指示的用法とされてきたが、本モデルでは定名詞句には積極的な指示の力はなく、存在前提を表すに過ぎないとする立場を取る。それによればこのthe doorは外部指示用法とは見なすことができず、共有知識領域に格納された認知的フレームが発話現場に重ね合わされた結果として獲得された存在前提を表すに過ぎず、いわゆる連想照応のメカニズムとよく似た現象であることも明らかにすることができた。 本研究の重要なポイントは、話し手と聞き手の「共有知識」の重要性を明らかにした点にある。従来、共有知識を前提にした分析は「無限遡及」に陥る難点があるとされることがあったが、照応過程を解明するためには共有知識は是非必要な装置であることが明らかになった。
|