本年度は、オスマン・トルコ法とビザンチン法の両方の影響を受けたバルカン法の実態を19世紀におけるセルビアの具体的な判決例を材料として研究した。セルビアは、19世紀初め、バルカンにおいてオスマン・トルコの支配下から実質的にはもっとも早く独立した。それ以降、近代的な法制度がセルビアで発達していく。しかし、セルビアの裁判による紛争処理の実例を分析してみると、トルコ封建制の下で伝えられてきた中世的慣習法の力がなお強く残っていたことが明らかになる。刑法では、死刑のほか、棒打ち等の体刑も長く行われた。「犯罪者の子または親族はその父母の行為につき刑事責任を負わず、代わりに罰せられることもない」、といういわば当然の定めが置かれたのは、実質的な独立後20年以上が経過した1838年になってからであり、それまでの個人責任思想の欠如をここに見ることができる。財産法分野でも、家父長制的な考えがなお強く人々の行動を縛っていた。相続法における男女差別、政治的権利および行為能力についての女性差別は長く続いた。裁判の前提となる司法制度の整備や法曹養成も遅々として進まなかった。このような事情の主たる原因は、セルビアにおける資本主義発達の遅れにある。同じバルカン地域にあり、20世紀になってもなおオスマン・トルコ法を一部法分野で維持し続けたボスニア・ヘルツェゴヴィナとは違うものの、セルビアでもいわゆる西欧近代法が社会に根付くのにはきわめて多くの困難を経験しており、むしろ西欧から遠く離れた日本の方が西欧法の導入への抵抗は少なかった。
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