本研究は、以下の問題を明らかにすることを目的としていた。第1に、バルカンの法文化はいかなる事情により西欧法と違う道を歩むことになったのか。第2に、バルカンの法文化は、いかなる点で西欧法文化と異なっているのか。第3に、東欧の旧社会主義諸国が崩壊した現在、ギリシャを除くバルカン諸国は市場経済の導入へ向けた体制転換の過程にあるが、果たしてこれらの国の法文化は西欧法文化に同一化されてしまうのか、それとも独自の法文化を維持していくのか。この3点である。現在のバルカンの法文化形成に影響を与えた主たる要素としては、ビザンツ法、オスマン・トルコ法、近代西欧法、社会主義法といったものが考えられるが、本研究では、その中でも近代に至るまで場所によっては500年以上もこの地域を支配していたオスマン・トルコ法の影響に重点を置いて、上記3つの問題を検討した。 研究の結果、バルカン諸国では、イスラム教徒以外にはイスラム法は適用されなかったために、人口の多数を占めるキリスト教徒の法文化にはイスラム法は直接の影響を与えなかったが、オスマン・トルコの国家法である土地法や税法はバルカンのキリスト教徒にも直接適用されていたことが確認できた。そのため、相当広範囲の法的紛争は、イスラム法、オスマン・トルコ国家法のいずれにもよらず、オスマン・トルコ征服以前のバルカン法によって解決された。その中身は、慣習法とビザンツ法であるが、カトリック文化を背景とする西欧近代法とは大きく異なるものであった。オスマン・トルコからの独立後、バルカン地域はヨーロッパに「復帰」する方向に向かうが、東方正教とカトリックというイデオロギー上の対立が、西欧法導入にとって一定の障害となり、バルカン地域の法文化は未澄に西欧法文化とは一線を画すものであり続けている。
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