民法上の「家」改廃の直接の契機は、そもそも憲法二四条の導入によってGHQの民政局が与えたことには注目しておく必要がある。二四条下の選択肢として、(1)民政局は「家」廃止を希望はしたが、違憲ではない形式的「家」の存置は認めるべく、存廃は日本側に一任する方針であった。これに対し日本側では、(2)起草委員は、「家」類似要素の存置により保守派と妥協しつつ、制度としての「家」は廃止する方針は譲らなかった。(3)保守派は、「家」の存置を主張しつつも、GHQの「家」廃止の既定方針の存在を一時期信じ、日本側の廃止論者の主張にも押され、「家」類似要素の存置で満足をせざるをえなかった。かたや、(4)革新派は、「家」の全廃の貫徹を要求した。これらの(2)(3)(4)の集団は、(1)の民政局の「家」廃止の希望に影響を受けつつも、法的制度としての「家」の廃止を自主的に決定したのであった。その後、民政局は、民法改正草案中の家類似要素の排除には再び影響力をふるっている。国会では、「家」廃止の改正案に対し、戸主権はともかく家督相続の廃止には反対論が強かったものの、結局、改正法案を無修正で成立させたのである。 占領期の民法改正、特に制度としての「家」廃止は、(1)〜(4)の四者が、こうした緊張関係の中で、幾多の誤解を交えつつ、微妙な駆け引きを繰り返した末の一つの結果であった。即ち、民法上の「家」の廃止は、旧来いわれていたような「起草委員の独自の発案」が貫徹された、あるいは「家」廃止の徹底を民政局が独自の方針として強く「要求した」、といった単純な過程をたどったのではなかったのである。 したがって占領と占領期の家族法改正の評価としては、暫定的にせよ、やはり(憲法二四条の制定に象徴される)占領という特集事情に加えて、(そもそも占領なくしても可能なはずの)日本側の独自の「家」廃止という決断、双方が相まって改正の決定要因となったと言わざるをえない。
|