ホメイニー他界後のイランでは、ホメイニーの革命イデオロギーの希薄化など体制の危機を痛切に感じるハメネイー最高指導者、ナーテク・ヌーリ国民議会議長など保守派がイスラーム的価値を一層訴えるようになった。しかし、この保守派のイデオロギーは、ともすると国民にイスラーム的イデオロギーを強要し、国民から自由を剥奪するものであったことは間違いない。また、保守派支配のイランは、中東地域のイスラーム勢力との連帯を強化し、西側の利益と敵対するイスラーム勢力を組織しようとした。 しかし、このような保守派のイデオロギーは、国民に画一化を強要し、またイランの国際的孤立をするものであったため、次第に求心力を失っていった。イランでは、「現実派」と呼ばれるラフサンジャーニー前大統領のグループに支持が集まるようになったが、さらに「自由の拡大」を唱えるハータミー大統領が1997年に登場すると、若者や婦人層の圧倒的な支持を獲得するようになった。 それは、2000年2月の総選挙で改革勢力が大躍進を遂げたことにも如実に示され、この選挙で一層の自由を求める若者や女性たちの声は、改革勢力の主張や活動を勢いづけるものであった。しかし、保守派は依然として、最高指導者のポスト、護憲評議会、司法、警察、軍隊を掌握し、保守派にとって不都合な立法を封じる動きを繰り返し行い、イランの改革は十分に進まないままである。 また、イスラームの政治離れも顕著となり、特に聖職者は政治活動を離れ、宗教生活に回帰するようになり、さらに若者の間ではイスラームに代わってナショナリズムが求心力をもつようになった。 1979年の革命によって成立したイスラーム共和国は、イスラーム法による神の主権と、「国民の意思」という二つの原理を折衷した。その相克によって生じる矛盾をいまだにイスラーム共和国体制は乗り越えることができないでいる。
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