本年度の研究では香港金融市場のおいて圧倒的なシェアを占めていた邦銀の動向を分析した。1980年代以降香港金融市場においては、日本の銀行(邦銀)が資産規模でみて過半のシェアをもっており、1990年代前半には地方銀行の支店設置ラッシュが続いた。こうした動きは、90年代における邦銀の国際業務からの撤退とは対立する動きのように見える。しかし、90年代前半の香港への邦銀の進出は主に地方銀行によって行われており、その進出が香港での業務の拡大をもたらしているというよりは、地元製造業の進出にともなってとりあえず進出するというものであった。そのため、1997年以降のジャパンプレミアムの発生や不良債権問題の中で急速に撤退に追い込まれ、邦銀数は2年間で半減した。結局、1980年代以降都市銀行を中心とした日本の大手銀行が邦銀の香港業務を担っていたが、その大手邦銀にしても1978年以降に進出した銀行に適用される"one building condition"、すなわちATMを含めて複数の店舗開設を認めないという規制の結果、リテール業務には進出できなかった。そのため、邦銀は日本を対象とした対外取引を主たる業務とせざるを得なかった。すなわち、日本からインターバンク資金を取り入れ、それを日本の顧客に貸し付けるという債権債務両建てでの業務を拡大していったのである。この動きは日本の規制を回避する迂回融資として従来強調されてきており、それが90年代半ばまで拡大し続けたと理解されてきた。しかし、融資が円建てで行われていたことを勘案すれば、融資規模は1990年にピークに達し、その後は円高の影響を受けて見かけの拡大を続けたに過ぎないと見ることができる。この日本を相手とした融資も1998年以降急減し、香港金融市場におけるオフショア取引の規模を縮小させるものとなっており、ここから香港の国際金融センターとしての地位の低下が懸念されるようになっている。
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