研究概要 |
第1章ではハンセン兄の「王立造幣所」及びヴァイレルの「マクリヤーニ陸軍病院」をネオ・ピザンティン様式を用いた最初の建築と見倣し、それ以前の時期をその揺籃期と、そしてそれ以後の時期をその展開期と把握し、この章では揺籃期の二人の建築家の内資料のないヴァイレルを除外し、ハンセン兄がその様式を創造するに至った契機と経過を明らかにした(目的1)と2))。その結果、1.ハンセン兄が赤色の小穹窿を頂く長窓をピザンティン建築の「建築の言語」と見なす契機となった聖堂は、アテネ市域内とその近郊の中期ピザンティン時代の1-1),-4)であったであろう;2.それと周囲の淡黄の壁面との色彩対照の規範となった聖堂は、1-2),-4),-6)であったであろうということが明らかになった。 第2章ではネオ・ピザンティン様式を一元的な様式とするハンセン兄の「眼科病院」及び同弟の「陸軍医薬庫」を取り上げ、上記二意匠以外に、新たにどのような細部意匠をどのピザンティン建築から採用したのかを明らかにした(目的3))。その結果、「ハンセン兄は建築意匠1)-3)を「救世主変容聖堂」と「ダフニ修道院主聖堂」から取り入れた。同様にカフタンゾーグルも後者から三重半円形小穹窿を頂く長窓を取り入れた。一方、ハンセン弟は、5)玄関廊を自ら創造し、そして6)円形窓を不特定の中期ピザンティン時代の聖堂から取り入れ、新様式に新たな水平を切り開いた。 第3章ではネオ・ピザンティン様式の拡大と変容をハンセン兄弟のギリシア外での活動を通して明らかにした(4))。その結果、19世紀後半に隆盛した多元的な折衷主義つまり「ロマン主義的な歴史主義」の渦中にあって彼らは、過去の様式を多元的に選択し、それらを折衷させ建築を構築した。第二に、その中で彼らがネオ・ビザンティン様式を用いた場合に主要な建築意匠素として見倣していたピザンティン建築の意匠は、半円形小穹窿を頂く長窓、山形装飾帯、半円形小穹窿と周囲の壁面との色彩対照の効果、壁面の多彩レンガによる文理効果、鐘楼類型1の5点であることが明らかになった。
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