ドイツ語圏では、文献を手掛かりに絵画作品を解釈するイコノグラフィーやイコノロギーへの反発として、作品を実際に観照する眼の働きの過程に注目し、「眼の論理」によって作品を解釈しようとする動きが、すでに1960年代から活発になっていた。 観照の過程は、美術史学においてのみ注目されているのではない。今日では、われわれが「芸術」という名で呼びうる事象は著しく拡張し、「美」や「真理の映現」といった美学の概念でそれをうまくとらえることはできない。かといって、制作者の意図に遡って作品の芸術性を演縄する方法も、やはり十分ではない。本来は芸術的であることを目的とせず、何らかの実際的な使用目的のために創られた人工物でも、ひとたび美術館やギャラリーなどに陳列されると、それは芸術的なものとして眺められることになる。われわれが芸術という名で呼ぶ事象は、もはや制作者の意図を超えでたコンテクストで作用している。こうした状況の中で、いかなる先概念をも排し、いわば芸術の生の様相を省みるには、われわれのその都度の観照経験から出発するよりほかなくなっているといえよう。 観照経験に注目し、その過程を現象的に記述することによって、従来の美学理論との実りある対決が期待されることとなる。今年は、観照の過程が、特に美学理論においていかに有効な反省を提起するのかを考察し、当該研究で中心的に取り上げているゴットフリート・ベームの仕事が、美術史研究だけでなく、美学理論としても注目に値することを検証した。 コンピュータの購入によって、資料の分類・整理が効率に行うことができ、またスイスとドイツに赴き、特にベームが現代美術の研究をとおして打ち出している美学的理論を、広く、かつ詳細に情報収集することができた。こうした資料をもとに、観照の過程が、制作の過程とのアナロジーでとらえられうるか否かを批判的に検討することが今後の課題である。
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