事象を自発的に、能動的に経験し認識することが、「解釈」という行為を伴っていることは、すでにH・G・ガーダマーの解釈学において明らかである。だがガータ゜マーは、音楽・演劇・造形的形象などのいかなる媒体であれ、あらゆる事象は結局は言語によって解釈されるべきであると主張する。これに対してガーダマーの弟子でもあるゴットフリート・ベームは、ガーダマーの解釈学を引き継ぎつつも、言語に無反省に依存するのではない、非-言語の媒体に独自の解釈学の可能性を追求する。しかしながら、この新しい解釈学を打ち立てる際に、避けては通ることのできない一つの困難がある。それは、非-言語的なプロセスで執り行われる解釈行為を、学問的に反省するためには、それを言語で記述し吟味しなければならない点である。この困難を課題として、今年度はおもに、造形的形象と言語の相互関係にテーマを絞り、考察を進めた。その際、ベームの近年の研究である「形象記述」についての論考から示唆を得るところが大きかった。それとともに、W・イーザーらの文学理論に刺激を受けるところもあった。昨年度は、造形的形象を目で解釈するプロセスがもっぱら考察のテーマであったが、この考察成果と、今年度新たに考察した形象の記述の問題を総合し、「形象・意味・解釈」と題する論文をとりまとめた。最終的には本考察を、言語を読み解釈する行為を省察する読書論とのアナロジーにまで押し進めたかったが、力が及ばす、具体的な成果をあげるにはいたらなかった。これを今後の課題として確認しておきたい。 近年では、マルチ・メディアの発達とともに画像がわれわれの文化に氾濫し、イコン(形象)をキーワードとした新たな認識の時代が到来しているといえる。こうした時代の文化も視野におさめたうえで、形象論のアクチュアリティの一側面を問うことができたと思う。
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