本研究では、戦前における大学論・大学財政論を検討するなかで、地方公共団体が大学の設置・維持にかかわるという〈公立大学〉という考え方に、次の二つの流れを見いだした。一つは高田早苗など、私学関係者によって主張された「官公私学同一視論」のなかにうかがわれるもので、私立大学とともに公立大学の存在意義を、官立大学独占下で生じた入学難を国家財政への負担を回避しながら解消する点に求めるものである。この文脈では公立大学は、私立大学とあいまって官立大学の補完をめざし、その「コピー」であることが求められる。 これに対して、第二は、大阪医科大学初代学長佐多愛彦によって主張されたもので、特別会計による大学の財政的独立を前提としながらも、「旧大学の官立主義に対する民衆擁立主義」、「官権的伝統精神に対する平民的実用精神」をもって設立し、大阪という都市への貢献を目指す大学としての意味を重視するものである。ここでは、国家を一定相対化し、地域貢献を意識した論理構成になっていた。これは後に大阪商科大学設立にかかわった大阪市長として著名な関一の公立大学論、すなわち公立大学は「国立大学のコツピーであってもならぬ」、「大阪市を背景とした学問の創造が無ければならない」という主張の先駆をなすものと位置づけることができる。 佐多は、医育一元論の嚆矢として著名な「医育論」等、前期の著作ではほとんど大学設置形態を意識していなかったが、1912〜1913年にかけて行った欧米視察以後、それに積極的に言及するようになった。すなわち、かれの独自な公立大学論は欧米視察のなかで形成されたものと考えられる。
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