本研究は、トーマス・マンの『フェーリックス・クルル』と『選ばれし人』を主に扱い、多様なテキストからの引用の織物として成立している小説を、書き手マンの自己意識との関連において捉えようとするものであった。わけても『選ばれし人』は、ハルトマン・フォン・アウエの『グレゴリウス』という明らかな「原典」が存在するという点で、上記の考察の手がかりとして好適であり、まずこちらを中心に研究を進めた。その過程で、これらのテキスト構造の把握のためには、「語り手」から「書き手」への遡行が必要なことが明らかになったが、上記の2小説は共に「書き手」が作品内にも登場し、それが持つパロディ的効果が複雑さを生み、「書き手」概念の考察の端諸としては適当でない。このため、『選ばれし人』で語りの多層性を扱った後、「作家」と「書き手」の明確な分離のためまずシュティフターの『水晶』を取り上げ、「書き手」を物語世界と現実世界の界面にある存在として、作品内から眺めた形で定位することを試みた。今後はこの「書き手」の存在をマンの作品に置いて検討していくことになるが、そこでは、演劇に置いて生身の役者と役が同一の存在でありながら二重化する現象のように、界面の書き手と役割としての書き手の二重化が問題になるであろう。そしてその外には「作家」という存在があるが、その存在様態がいかなるものかも同時に問題になるはずである。したがって「マンの自己意識」というものについては、未だ仮説的なものにとどまっている。
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