研究当初の仮説、すなわち、スイス諸都市に拠点を置くカルバン派教徒(=改革派)の経済活動が、生産志向というよりもむしろ流通志向であり、金融貿易活動にその重心があるのではないかとの仮説は、ジュネーブおよびその他のスイス西部地域出身のこれら改革派系商人の活動の分析によって確認することができた。同時にその活動が、パリをはじめとするヨーロッパ主要都市、海港都市を横断的に結ぶものであること、この横断的活動が、綿製品という新商品の流通活動と密接に関連していたことも、実証された。また、当初想定していなかった要素としては、かつて迫害を受けたカトリック諸国、とりわけフランスへの再流入と活動が、当時のフランス側での改革派に対する弾圧の弛緩の結果であることが明らかとなった。 19世紀初頭のスイス諸都市のうち、こうした改革派系の商業網との銀行業の繋がりが確認されるのは、ジュネーブ、ヌシャテルの場合であり、そのほか、バーゼル、チューリヒについても若干例が確認される。東スイスでは改革派商業網との繋がりよりも、むしろ南ドイツ都市との関係のほうが深い。他方、19世紀のスイス諸都市のうちで、旧来型の個人銀行が優位を占め、これが新設の機関銀行と競合関係にたったのがジュネーブであり、個人銀行がシンジケートを形成し、やがて株式機関銀行となるのがバーゼル、当初より個人銀行の勢力が強くなく、株式機関銀行の設立で初めて本格的な銀行業務が開始されるのがチューリヒである。このように、改革派系銀行の活動と個人銀行の活動は大幅に重複している。改革派系の銀行と株式機関銀行との連続性は、今日のスイス二大銀行の一翼をなすバーゼルの金融機関において一部みられるが、それほど強いものではない。改革派系商人の活動と、近代スイスの銀行業との間には、スイス東北部での工業的発展という媒介項が存在しているというのが、本研究の結論である。
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