本研究は、中・近世において飛躍的な発展を遂げた寺院を中核に形成された日本の宗教都市を取り上げ、そこでみられる子院の成立・集合過程をあとづけて、寺院を母胎に宗教都市が成立していく様子を明らかにしようとしたものである。本年度は高野山を素材とした研究を発展させて論文執筆すると共に、比較事例として醍醐寺・仁和寺・大徳寺・妙心寺を事例として取り上げて主として外観調査を行った。 まず、前者からは下記の事項が判明した。すなわち、中世には、A中心伽藍の周囲に複数の子院が横の連携を保ちつつ展開する場合、B中心伽藍からはやや離れた場所で有力子院がその境内地を分割しつつ小規模子院を付着させていく場合、の二つのケースがあった。そして近世に至って中世のA・Bは共に地縁的な子院集団=「谷」に一元的に再編成され、山内は空間的にも社会的にも「谷」によって埋め尽くされ(「高野十谷」)、全体が均質なパターンの繰り返しで構成されるようになる。そして、この「谷」は湯屋や院内堂といった共通の施設の使用・管理を活動の核としていた。 一方、後者からは今後の研究におけるいくつかの作業仮説を得た。すなわち、高野山のように必ずしも「谷」との名称は確認できない場合でも、子院どうしの地縁的な結びつきが存在したのではないか、また、高野山と同様に寺院内の子院空間にはいくつかの類型が認められ、それは建築形態から配置形態に及ぶものであり、上述の地縁的な集団と一定の関係を有していたと推定できるのではないか、の二点である。
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