本年度は、平安後期、治承・寿永内乱期、承久の乱頃の在京武力に関する成果を執筆・報告した。 「(書評)谷昇著『後鳥羽院政の展開と儀礼』」(『古文書研究』73)では、主に政治史的な視角から「後鳥羽の時代」を論じた研究書に対して、史料的制約の克服という関心を評価し、源実朝暗殺の首謀者を後鳥羽院とする説についての疑問を呈した。 「〈承久の乱〉像の変容」(『文化史学』68)は、後鳥羽院による北条義時追討計画の内実と、後世における歴史像の変容を考察したものである。後鳥羽が特定有力御家人充ての院宣と不特定多数武士充ての官宣旨によって北条義時追討を計画していたこと、『承久記』諸本の義時追討命令の叙述が慈光寺本→流布本→前田家本と変容したこと、十四世紀頃から十六世紀頃にかけて〈承久の乱〉像が実在の文書から乖離した討幕の事件として変容・再構成されていったことを論じた。 「木曾義仲」(『中世の人物〔京・鎌倉の時代編〕二』)では、木曾義仲の在地領主に対する所領認定に注目した。義仲が、治承四年に北信濃・西上野を基盤とする反乱軍として行動を開始し、治承五年6月の横田河原合戦後、同年11月以前に北陸道まで及ぶ広域的権力へと成長したことな寿永二年7月の入京後は官軍となり、上級領主権の獲得に伴う下級領主権の安堵をも行うようになったこと等を指摘した。 「藤原秀康」(『中世の人物〔京・鎌倉の時代編〕三』)では、藤原秀康が後鳥羽院の「切り者」として院御厩の奉行や国務の運営などで活躍し、所領を集積したこと、後鳥羽が武力として育成し、京の治安維持に一定の役割を果たすようになったこと、しかし武力に限界を抱えたまま承久の乱時に一族同心して京方に属し滅亡したこと等を指摘した。 「平氏政権の樹立」「清盛の死去と平氏滅亡」では、治承三年~文治元年の政治状況と合わせて、平氏の軍事編制の特質を考察した。
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