18世紀後半から19世紀前半にかけての中国沿海を中心とする国際政治経済関係は、当該期のアヘン・銀・茶といった国際商品とロンドン・シティの多角的金融構造を軸に成立する世界経済の重要な構成要素である。従来、この間の政治・経済関係は、「西洋=イギリス」と「中国=清朝」の衝突という二分法で語られてきた。しかし当時の国際政治経済構造は、マカオを結節点にさまざまなアクター(清朝中枢、広東当局、公行、マカオ当局、英国東インド会社、カントリートレーダー、英国本国、ポルトガル本国、地元住民、海賊など)のそれぞれの文脈と利害に基づく活動の均衡の上に成り立っていた。 本研究においては、ロンドン・リスボン・マカオ・北京・台北・広州などの文書館に所蔵される一次資料を利用して、上記それぞれのアクターの利害を跡付ける。この作業を通して、これまで大英帝国論・伝統中国論・中西関係史・近代東アジア経済史の狭間にあって閑暇に付されてきた、19世紀以降の東アジア近現代における変動の前提となる国際政治経済構造が明らかになる。 本年度は、大英図書館(ロンドン)および澳門歴史襠案館(マカオ)において調査を行い、特に19世紀初頭における中国沿海の海賊問題へのヨーロッパ人の関与の在り方に関して史料を得た。その分析の結果、19世紀初頭のイギリス東インド会社のカントンコミッティは、アヘン取引の競争相手であるマカオ商人の排除を含む対中貿易条件の改善を目指して中国沿海における影響力を拡大するべくボンベイからの派兵を希求していたが、会社本部及びインド総督は必要性を認めず、現状維持を支持していたし、また清朝広東当局との交渉も受け入れられなかった。一方、マカオ当局と清朝広東当局は、海賊対策において交渉と協調行動をたびたび行っており、当該地域秩序維持のパートナーとなっていたことが明らかとなった。
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