動物が生きていくためには、環境から獲得した膨大な量の情報を神経回路で処理し、環境に対して適切に応答しなければならない。このためには、重要な記憶が保持されるとともに、不必要な記憶が忘却されることが重要である。しかし、忘却がどのような分子によりどのように制御されているのかこれまでほとんど明らかにされていない。このような、忘却の制御機構を明らかにするために、単純な神経系を持つ線虫は非常に有用なモデル生物である。私は、線虫の嗅覚順応と一種の連合学習である塩走性学習との2つの行動可塑性をモデルに記憶を忘れにくい変異体qj56を単離した。qj56ま野生型では4時間以内に失われる嗅覚順応の記憶が24時間以上、30分以内に失われる塩走性学習の記憶が1時間以上保持される表現型を示す。このように、qj56変異体は様々な行動可塑性の記憶を長く保持することから、様々な記憶が共通の忘却機構により制御されていることが示唆された。qj56変異体の原因遺伝子を解析したところ、qj56変異体は哺乳類のSARMタンパク質と相同性があるTIR-1をコードする遺伝子の欠失変異体であることが明らかになった。SARMタンパク質は哺乳類の脳で発現しているが、まだその機能は明らかにされていない。分子遺伝学的解析から、TIR-1が1対の感覚神経でp38/JNK MAPキナーゼ経路を介して記憶の忘却を制御することを明らかにした。この感覚神経が正常に分化しない変異体では記憶が忘れにくいことから、この神経が記憶の忘却を促すようなシグナルを他の神経に放出している事が示唆された。哺乳類においても線虫と同様の忘却機構が使われている可能性も高く、本研究は哺乳類の忘却機構の解析の糸口になると考えている。
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