ネパールでは、キリスト教が広く浸透しつつあるものの、マジョリティであるヒンドゥ教徒や仏教によるキリスト教(徒)への批判は根深い。本研究は、キリスト教(徒)に向けられる批判や蔑視の内実、それに対するキリスト教徒の見解や対応に迫るものである。 平成22年度初旬には、それまでに収集されたデータを分析し、その成果を『社会人類学研究会』にて発表した。 平成22年度7月からは、カトマンドゥ盆地の中でも、キリスト教機関や教会が多く集まるラリトプール地区において、約8カ月の調査を行った。調査内容は、図書館や博物館での資料収集、キリスト教機関、教会、ヒンドゥ寺院、仏教寺院、家庭での参与観察および聞き取りである。キリスト教徒には、ネパールの伝統を捨て、宗教の名の下に何らかの効用を追求しているという批判が向けられてきた。実際に、病や生活の困窮は改宗動機のうちで主要な位置を占める。だがこれは、キリスト教徒にとって、批判には当たらない。そもそも「信じるbiswaas garnu」こと自体が効用の期待を含意しているからである。「信じる」というよりは「あてにする」という訳が馴染むこの表現は、ヒンドゥ教や仏教の文脈では用いられない。ヒンドゥ教や仏教の文脈では異なった「信じるmannu」という表現の下に、古来より伝わる宗教dharmaに「従う」こと自体が重視されているのである。「アイデンティティを守るため」と説明されてきた外来宗教への反発が、「信じる」ことの違いに起因していることを明らかにした点に本研究の意義がある。 だが、キリスト教徒の間でも、最低限の生活を送るためではなく、「欲深さ」から経済利益を期待することは不適切だとされてきた。そして近年、不適切な利益を追求するキリスト教徒が少なからず現れるようになっており、その結果、キリスト教徒たちの間でもお互いに対する批判や猜疑心が広まっていることが観察された。
|