本研究の課題は、近世-近代移行期における「教育」の営みを、その社会的文脈である地域社会に位置づけて構造的に把握することである。この課題に応えるため本研究では、信濃国松本藩筑摩・安曇郡を対象地域とし、当該地域で指導的な立場にあった人びと(地域指導者層)の具体的な動向を追うことで、19世紀後半における地域社会の歴史的変遷を描き出す。以上の問題意識のもと22年度は、研究成果の公表と新たな史料収集・解読とを平行して行った。まず、筑摩県の学事関係者が多様な活動に関わっていた事実に着目することで、近代学校が地域社会に定着していく様子を描出した。近代学校がそれ単独ではなく、新聞や博覧会という地域「開化」(=「教育」)のメディアとの相互の連携のもとで地域社会に展開し、その連携の綻びにより近代学校のメディアとしての性格が明確化していったと指摘した。第二に、明治初年代の筑摩県下で盛んに催された博覧会の歴史的意義を検討した。明治政府の「開化」政策をそのまま模倣するだけでなく、地域の文脈に合わせてその意味を読み換えながら博覧会を運営する地域指導者たちの姿を描出した。第三に、史料調査の過程で見出した小学校教員の「明治九年丙子枝校巡回日記」を紹介した。1876年に筑摩県安曇郡の教員が支校を巡回した際にまとめた日記であり、明治初期の学校運営の様子を具体的に伺うことができる貴重な史料である。特に、試験中に「酒宴」を催す村の学事関係者と、それをとがめる教員とのやりとりが興味深い。このやりとりをひとつの契機とし、学校運営の現場で、試験や教員のあるべき姿が明確化したのではないかと解釈した。以上の研究成果は、地域指導者たちの明治初年代における動向を追跡したものである。これらの成果をふまえ今後は、彼らが地域社会を「開化」・「啓蒙」するため多様な活動に取り組んだ背景にあった課題意識をとらえる必要があると考えている。.
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