本研究の課題は、近世近代移行期における「教育」の営みを、その社会的文脈である地域社会に位置づけて構造的に把握することである。この課題に応えるため本研究では、信濃国松本藩筑摩・安曇郡を対象地域とし、当該地域で指導的な立場にあった人びと(地域名望家層)の具体的な動向を追うことで、19世紀後半における地域社会の歴史的変遷を描き出す。以上の問題意識のもと23年度は、研究成果の公表と新たな史料収集・解読とを平行して行った。まず、近代学校の設立を地方レベルで担った人びとについて、幕末期における身分に多様性がみられることを指摘し、その意味を検討した。従来は、「地域指導者層」と一括りにされがちであった地域の学事担当者が、近世段階では大庄屋やその分家、また庄屋など身分的出自とそれにもとづく文化・政治・経済的力量を異にする存在であったことを解明した。そのうえで、「御一新」に伴い地域社会の支配体制や身分秩序が流動化するなか、新たに成立した明治政府の近代化政策を具体化させることは、その担い手にとっては自身の地位や名望の保持という意味を持っていたことを指摘した。第二に、明治初年代の筑摩県下で盛んに催された博覧会の歴史的意義を検討した。博覧会を取り上げることで、明治政府の近代化政策をそのまま模倣するだけでなく、地域の文脈に合わせてその意味を読み換える地域名望家たちの姿を描出することが狙いである。筑摩県下博覧会における展示の中心は、海外の文物や新機械というよりも、県下各地の「古器物」や村芝居であった。こうした特徴について従来は、「骨董博覧会」と位置づけられ、単に充分に「開化」されていない地方特有の特徴であるとされてきた。これに対し本研究では、明治初年の地方博覧会が、地域民衆の心をつかみつつ地域の「開化」を効果的に推進し、明治の「新時代」に対応した形で地域社会を運営していくひとつの手段であったことを指摘した。
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