前漢末の揚雄の作品には、「甘泉賦」「河東賦」「長楊賦」「羽猟賦」等の賦があり、基本的に司馬相如の「子虚賦」「上林賦」の模倣であるといってよい。しかし、形式面において「甘泉賦」をはじめとするいくつかは対話形式を用いておらず、また司馬相如の作品にはあまり見られない三字句で構成される表現があって、激烈さを表すのに効果的に使われている。難解な文字の多用と併せて揚雄のこうした特徴は、相如の作品を継承するとともに、それを超えるべき対象として強く意識するがゆえの、必然的な変革の志向に由来するといえる。「逐貧賦」等には『詩経』をはじめとする儒家の典籍中の語句や表現が、原型に近い形で取り込まれている。これは揚雄と同時代の劉〓や後漢の崔篆の賦にも共通する特徴であり、賦以外の著作にも見られる。その根底には、創作者の身分が宮廷文人から学者的性格をもつものに変わったことと、儒学が古典として確立したこととが存在しよう。 この時期は文学史観の形式においても大きな意味をもっている。劉向らの『七略』に代表される図書の分類、目録の学の出現は、儒学の成立と不可分の関係にあり、しかも『史記』太史公自序などの「序」が、歴史的視点から書物等の特質を記述しているのとも共通する。こうした著作に文学史観が見られることはそれを裏付けているし、文学史観の形成を促進したものとしてはさらに、過去の作品の理解の上に立ってその系譜上において作品を書くようになる創作法があげられよう。
|